既出だろうし、わたしはねこぢる作品をまだ一部しか読めていないが、あえて自信有りげな口調で以下の文章を書くことにする。
にゃっ太は“はんぶん”を失っているという話。
ここでいう“はんぶん”とは、もちろん「たましいの巻」においてにゃーこが一度失ったような、魂の“はんぶん”である。
“はんぶん”を失ったにゃーこは自我を失うことになったが、にゃっ太は言葉をうしなったのではないか。“はんぶん”を失う前のにゃったは話すことができた。
“はんぶん”を失ったのは当然、「かぶとむしの巻」においてである。
「かぶとむしの巻」は、右腕を失った事で明確に分かる通り、にゃっ太が失う物語である。
犬を殺した後、にゃっ太は不意にカブトムシが欲しくなり、取りに行こうとする。このカブトムシはにゃっ太の外出の目的であり、カブトムシの入手が帰宅の条件となる。
だが、にゃっ太は帰宅の条件であるカブトムシを半分しか見つけられない。だから、にゃっ太は半分しか帰ることができない。
「もうおうちにかえろう」と言ったにゃっ太はカブトムシを持って直立し、服を着て、虫かごを下げている。しかし、最後のコマで「どこだろここ…」と言ったにゃっ太は四足で、服を着ておらず、虫かごも持っておらず、カブトムシも持たない。
この四足のにゃっ太が、カブトムシを手に入れられなかった半分であり、つまり、にゃっ太が失った“はんぶん”である。
四足のにゃっ太は積み上げられた石が点在する河原にいる。言うまでもなくこれは賽の河原である。にゃっ太が歩いてきた道には水子供養の広告の貼られた電柱もあったし、にゃっ太が死に近づいていることを暗示していた。にゃっ太の半分は「かぶとむしの巻」の最後で死を迎えたのだ。
おそらくこの後、カブトムシの半分を手に入れることができた方の“はんぶん”は帰宅したのだろう。だが、言葉を失った。にゃーこが半分を失っていた際は目の色が薄くなっていたが、にゃっ太は眉毛が消えた。
魂が左右に分かれて、全てが半分になってしまったにゃーこと違い、にゃっ太が失ったのは(頭部や胸部に比べれば重要度の低い)腹部であったために、自我に対してはにゃーこほどの影響が表れなかったのだと考えられる。
さて、にゃっ太がすでに半分を失っていると仮定することで、もう一つ明らかになる事がある。にゃーこが死に連れ去られ、半分を失った「たましいの巻」において、連れさられるにゃーこににゃっ太だけが気づくことができた理由だ。
にゃっ太は半分死んでいる。だから、生者の世界にも死者の世界にも干渉ができるのだと考えるのが自然だろう。
また、にゃーこが死の淵で「あーへやがまわるまわる…きもちがわるい」と言っているが、「かぶとむしの巻」でのにゃっ太も「あーなんだか地べたが回る…」と発言している。さらに、にゃーこは謎の男に外に誘い出されるが、にゃっ太は「ネン坊は夜でんしんばしらの下に落ちてるっていってた」と言って、カブトムシを外に探しに行く。両方とも、外出のきっかけに他者が関係しているのも同じだ。
ここでねこぢる草に言及してみよう。
ねこぢる草は風呂で溺死したにゃっ太の走馬灯だ。
記憶が再構成され、奇妙な一編の物語となって再生された走馬灯である。
本来はにゃーこの死の場面であるはずのにゃーこが半分にちぎれるシーンが、自身が半分を失った場所を背景として再生されている。溺れたので洪水が起きる。水のイメージが頻出する。ブリキの車が死の原因の一つなので、追い求めていたものがブリキになっている。走馬灯の最後には水に落ちるブリキの人形が現れる……。にゃっ太以外の家族が消えるのは走馬灯の終わり(=意識の終わり)を指し、最後ににゃっ太も消えてしまうのはにゃっ太自身が消滅、死を迎えたからだ。
一番重要なのは、走馬灯の最初のほうで、にゃっ太は半分のカブトムシを捨ててしまうことだ。
「かぶとむしの巻」で手に入れたカブトムシはにゃっ太の生存条件である。半分しか手に入れられなかったので、にゃっ太は“はんぶん”で生活することになってしまった。その“はんぶん”を現世にとどめていたカブトムシを、にゃっ太は水の中に捨ててしまうのである。
めっちゃスッキリした、ありがとうございます
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